Soflan Daichiより特別寄稿

2023.01.06

ちょうど今読んでいる本の中で、リルケ先生がいいことを言っていました。
“人類の最初の人間であるかのように、あなたが見、体験し、愛し、また失うものを言うように努めてごらんなさい”

 

これって作詞するうえでも大切なことかもな、と。
「詞が書けない」と言って僕のところへ来る方の多くが、テーマ設定の段階で「これじゃそりゃ詞にならないよ」という状態であることが多々あります。「なんとなくこういうことを書きたい」そのイメージだけで書き進めてしまい、その結果、並んでいる言葉達もどこかで見たことあるようなそれっぽいフレーズの羅列になってしまっている。そういう方はとても多いです。

 

そうなってしまってる人に共通して言えるのが、「集団としてのカテゴライズされた人間」というものを描こうとしてしまっている、ということがあると思います。人間ってこうだよね、こういう人ってこういう時こういう風に考えがちだよね、みたいな。そのイメージだけで書いてしまうと、どうしても表層的な一般論レベルの話しか出て来なくなってしまうのは当然ではないかと思います。そうではなく、僕らが描くべきは「一人の心と肉体を持った人間」だということを忘れてはいけないということです。一つ一つの出来事や葛藤に対する心の発現というのは百人百様で、そこにオリジナリティの一つの端緒があるのではないでしょうか。

 

なので、レッスンではよく「この子は何でそう思えたの?何がきっかけだったの?」「その時この子の目の前にはどんな風景が広がってたのかな?」「じゃあそれはどう見えてたと思う?」と、生徒さんの中でまだ漠然としているイメージを、一つ一つ解像度を上げていくという作業をよくやります。その中で出てきた言葉や視点から、「じゃあそのワードをこういう風に広げたら、こういう面白い世界観で君の望んでいるような内容を描けるんじゃない?」と。そうやって目の前で一緒に作詞の過程を実践していく。
多くの方が知りたがっている、「カッコいい言葉の作り方」や「細かい表現のレトリック」というのはその先の話で、まずは大枠をしっかり作れるようになろうよと。「何をどう描くか」これが作詞の全てだと言っても過言ではないと思います。
「誰もが見えているが見ていないものを描き出す」というのが詞の役割の一つとしてあると思うのですが、そのために必要なのは、こういう、世界に対する自分なりの「まなざしの向け方」を知るということなのだと思います。レッスンではそのための案内役として、生徒さんの思索の旅路を伴走しています。

 

詩人のジョン・キーツの言葉に「Negative capability」というものがあります。これは「不確かさ、不思議さ、疑問の中にあって、性急にそれを証明してしまおうとせず、答えの出ない問いの中に居続けられる能力」といった意味で、これが詩人にとって必要不可欠な能力なのだと言っています。
これは作詞家にとっても同じようなことが言えると思います。先ほどのように「なんでそう思えたのか?」「なぜそう見えたのか?」そうやって自分の内へ内へと入って思考を深めていくというのは、とてもシンドイ作業です。疑問が生まれれば誰だって性急に解決したいと考えるし、分からないことがあればとりあえずレッテルを貼ってでも分かったようなつもりになりたい。ましてや今の時代、検索すれば即時的にそれなりの答えが見つかります。そういう、本能にも時代にも逆行するような行為でもあるという意味で、問いの中に留まり続けて考えるというこの営みは、とても忍耐力の要求されることなのかもしれません。
そこから逃げ、それを安易に「どこかで見た歌詞っぽいフレーズ」や「ありきたりな表現」に置き換え、とりあえずの解決を図ってしまえば確かに楽です。ですが、そういう状態で書き上がった歌詞が、どこかありきたりで薄っぺらにしか書けていないような気がする、というのは当然の心証なのではないかと思います。

 

よく作詞において「降りてくる」などと表現されることがありますが、正確に言えばもっと泥臭いもので「ふっと道が見える」という表現のほうが近いような気がします。安易に解決させてしまうことなく、心の片隅に置き続けていた不思議さや不確かなものが、何かの拍子に、ふっと「こういうことかもしれない」「ここを進めばいいのかもしれない」と道が開くような感覚。制作をしたことのある人なら、誰でも味わったことのある感覚ではないかと思います。そして道が見えたからといって必ずうまくいくわけではなく、進んで行った結果行き止まりでまた出発点に戻らされたり、途中で違うルートを見つけて想像と全く違う場所に辿り着いてしまったり。そういう焦れったい堂々巡りを繰り返して、皆なんとか作品を作り出しているのだと思います。

 

ここで、冒頭のリルケ先生の言葉を思い出して欲しいと思います。
“人類の最初の人間であるかのように、あなたが見、体験し、愛し、また失うものを言うように努めてごらんなさい”
例えば「太陽の光」を表現しようとした時、あなたが人類最初の人間であると仮定したらどのように表現しますか?「ギラギラと照りつける」や「焼け付くような」という安易に解決出来る、手垢付きの便利な表現はまだ一つもこの世に存在しません。

 

ここから、詞が始まるのだと思います。
そういう、ロゴスによって小綺麗に整えられてしまう前の閃光のような言葉達に、今年もレッスンで沢山出会えたらいいなと思ってます。

 

受講する皆さんのご要望に最善を尽くして参りますので、まずは無料の体験レッスンで実感して頂ければ幸いです。
以上、宜しくお願い申し上げます。